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手塚さんはいつから起きてるのかしら。
事実(実在)は歴史科学的概念構成と独立に与えられているのではない。又同様にそれは自然科学的概念構成から独立に与えられているものでもない――之はすでにフリッシュアイゼン・ケーラーの主張であった。
応接間には、加来の臨終を待つ人々、おほぜい、或は腕組みをし、或は、長椅子に倚りかかり、或は、額をよせてひそひそ話をし、など、緊張と退屈との入り混つた空気が漲つている。
夜岩本さんが来て、グランパから電話で私が工合でも悪いのではあるまいか、と云って来る。堪らなく成って自分で電話をかけて呼ぶ。岩本さんは、用があると云って図書館へ行った。
だが私は、私の肉体は、処女の純潔さを保っている。年若い雛妓のそれとは、同じ肉体でも、香気が違うのだ。饐えた匂いなぞ、みじんもありはしない。
加来呼ぶ必要のあるものは、急いで呼び寄せるやうにつてか。
A――為し遂げるとか中途で斃れるとか、そんなことは人間の浅墓な考えなのだ。人の欲望には限りがない。その無限の欲望が果されないからといって、お前のように悲しんでいては、結局生きることも死ぬことも出来なくなる。これまで十分に生きてきた、これから十分に死ぬのだ、というだけで沢山ではないか。
久保田の心は一種の羞恥を覚えることを禁じ得なかつた。日本の女としてロダンに紹介するには、も少し立派な女が欲しかつたと思つたのである。
生活の協同化とは、小にしては隣組、大にしては町内または部落、更に、一市一郡といふやうに、生活のある部分を、協力して築き営むことであります。協同献立、協同炊爨、協同託児所のごときがそれであります。これは、もとより、能率に関係があり、生産力拡充には最も必要なことでありますが、一方、国民の性格訓練としても、是非とも励行したいものであります。そこからは、現在われわれの社会生活に最も欠けている秩序の美と力とが養はれるでありませう。更にまた、日本人は、元来、人と一緒に働くことも遊ぶことも不得手であります。そのために、われわれの能力と価値とが百パーセント発揮されていないのが偽らぬ事実であります。そればかりではありません。生活の楽しい協同化は、ゆがめられた日本の家族主義を、健全に建て直す唯一の道であります。
人々は直ちに云うであろう。吾々はすでに方法が吾々の側にぞくするのを見た。そして学問も亦吾々の産んだ仕事である。故にこの吾々という概念を媒介とするならば、学問に固有な契機は対象ではなくして明らかに方法である他はない。其は至極当然ではないかと。けれども人々はかく主張することによって一つの同語反覆をなして居るに過ぎないことを注意する必要がある。学問はどのような意味に於て吾々の産んだ仕事であるのか。それは吾々が方法によって学問を構成すると考えられるからである。この場合それ故学問は方法と同一視されている。方法の性格は無論方法である。又或る人々は学問と真理とを等値する事によって次のように云うかも知れない。真理は吾々が構成したものである、それ故この吾々を媒介として学問は独特な仕方で方法に結び付く筈ではないかと。学問が真理と等値されるという言葉自身を吾々は承認してよいであろう。学問は真理の体系と考えられるであろうからである。けれども真理が吾々によって構成されたものであるとは何を意味するか。恐らくこの構成の原理は所謂普遍妥当性を意味するであろう。即ち「先天的総合判断の可能性」がそれであるであろう。もしそうであるとすれば、主観によって総合された判断が如何にして客観性を有つことが出来るか、という問いをこれは意味する。この時、所謂吾々は主観に他ならない。処が方法が吾々にぞくすと云った場合の吾々が決して主観であってはならないことを私は特に指摘しておいた。従って人々の推論は四個の名辞によらねばならなくなる。のみならず普遍妥当性が独立化せられて規範となり、規範概念が題目となって独立化して価値概念となる時、其は主観とさえ絶縁した客観となって了うであろう。かくて人々は見せかけの媒語をすら失う。それであるから学問に於て特に方法が重大に見える理由は、学問が吾々にぞくするからではない。そうではなくして已に方法が対象に対して何かの優越を示し得るからであるに違いない。処が方法と対象とは今まで述べた限りに於ては平等であるように見えた。この撞着をどう解くか。
「すこしありますよ、私はいたゞかないから、貰つたのをそのまゝにしてありますよ、」
加来非常によろしい。幽明の界といふのはこれかと思はれるほどです。
二枚位の凧を上げていて不思議に思うことが一つあつた。それは日沒後まだあかねの射す頃、十分に上つた凧が惜しくて下さずに遊んでいると、風はばつたり止んでしまつても凧の下りぬ事だつた。小づかひを貰ふ度糸を買足し/\して、たるみにたるむ程長く伸してるのだから、凧は可なり遠く高く、風の吹き止んだ夕暗の中にぽつんと浮んでいるのだ。二度ばかり出くはした。下界の風は凪いでも、天空には不斷に吹いているのであらう。
処がカントの批判主義、之に必然に伴わねばならない形式内容の二元論は、人々が素朴なその限り又実在論的な哲学的学問態度を信じることが出来ない限り、直ちに一応必然である。カント自身がコペルニクス的転回として誇り、又後の所謂カント学徒達によって、往々神経質と思われるまで誇張されるものこそこの必然性であるのである。之によって実在乃至存在の問題も亦認識乃至知識の問題にまで転回される。所謂形而上学乃至本体論は認識論乃至論理学にまで転回される。尤もこの時、問題を一歩進めて、この認識論的立場に止ることが当然であるかないかを問うべき場合に来る筈なのであるが、それは遙か後回しとして、少くとも一旦はこの立場に立つことが必然であるであろう。それ故茲に一切の問いは認識乃至知識に就いての夫として性格づけられる。そうすれば学問も亦之に従って一つの認識――学問的認識――として認識という規定に沿うて性格づけられる他はない。科学論が知識理論(Wissenschaftslehre)として認識論に帰属することは茲に初めてその必然性を有つ。科学論はその理論の論理的秩序に於て、学問的認識の論理学――認識論――として意識される、科学論はこの論理的根柢に基いて論理的に構成される。――之が科学論の第二の動機である。
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